「協治」解題

東京大学農学部国際開発農学専修4年
林政学研究室所属 目黒 紀夫
<megur@fr.a.u-tokyo.ac.jp> 

 この文章は、東京大学農学部冬学期授業、「森林社会学」(担当教官:井上真)の授業ないプレゼン用に作成したものを修正・一部加筆したものである。もともとは、井上真著『コモンズの思想を求めて』(岩波書店、2004)のうち最終章である「第四章 コモンズの思想への旅」を要約し、その内容についての分析を行なったものである。著者の井上真は東南アジア(特にインドネシア)をフィールドに熱帯林の保護を研究してきたが、この本においては、森林の「住民参加型管理」を一歩越えたものとして「協治」という概念を提示している。これは、農学分野における「住民参加」論の最先端の展観の一つであり、「参加型開発」の議論に際しても参考になる考えだと判断し、今回、国際開発フォーラム用の資料として再編集し、このように発表する運びとなった。

  本文の最初では、「協治」概念の概略を紹介し、その後に、「協治」のキーワードごとに考察を行なっていったが、『コモンズの思想を求めて』の該当部分を読んでもらうことでより理解が深まると思われる。なお、授業内発表においては、著者である井上も参加したが、本文章における文責は全て目黒にある。

【「協治」の概略】

井上がフィールドとするインドネシアの東カリマンタン州西クタイ県においては、先住民族出身の知事がNGOの協力をあおぎながら、多様な立場の人間を取り込んだワーキンググループを結成し、地域森林管理計画の作成を進めている。この結果として条例の制定まで行なわれたが、そこにおける今後の改善点としてはメンバー間の情報伝達の向上や予算の不足、権限の問題などがあり、また、地方分権推進下における中央政府政策との整合性も大きな問題となってきている。

このような活動を調査した結果として、井上は、「地域森林ガバナンス」における主体には誰がなるべきなのかということを問題とする。そして、地域の森林管理へ関与するための正統性としては様々なものが考えられ、唯一の正解を求めることはできないが、「すべての利害関係者(ステークホルダー)による平等な参加」という安易な平等主義ではなく、極端な地域主義からも地球全体主義からも峻別されるような「開かれた地元主義(open-minded localism)」にもとづく「協治」が今後進むべき方向性として考えられるとする。

 「協治」とは「中央政府、地方自治代、住民、企業、NGO・NPO、地球市民などさまざまな主体(利害関係者)が協働(コラボレーション)して資源管理を行なう仕組み(p140)」のことであり、このような「協治」に「よそ者」が参画することの正統性の根拠としては「かかわり主義(principle of involvement/commitment)」という概念が有効とされる。なお、「かかわり主義」は「よそ者」についてだけでなく、地域住民の間における正統性の問題にも同様に有効である。このような「協治」にとっては、「かかわり主義」が「育ての親」であり「開かれた地元主義」が「産みの親」であるということができる。

また、「協治」とは「インターリージョナリズム」を現実のものとするためのものであり、「協治」においては国境や地域といった領域を越えた、グローバルなレベルでの公共利益の獲得が達成される。そこにおいては、ローカル・コモンズと公共空間との接合が起こるのだが、「協治」の主役は「市民」でなく「ふつうの人々」としての「素民(ソミン/スのタミ)」である。そして、「かかわり主義」を基盤とした「素民」のかかわりにおいて重要なのは「有志」の生成である。「協治」を媒介とすることで、ローカル・コモンズの思想、公共性の思想を包摂するものが「コモンズの思想」であるが、手段としての「コモンズの思想」の目標は「サステイナブル・ソサイエティ」と呼ばれるような社会である。

【考察】

@ 「開かれた地元主義」と「よそ者」

「開かれた地元主義」という考えのもとには、「すべての利害関係者による平等な参加」を謳うことで結果的に地元住民の意見が無視されてしまうような状況への反発とともに、「偏狭な地元主義」により地域外の人間が問題に関与することを排除するあり方を問題視する姿勢がある。しかし、なぜ、「『開かれた地元主義』でなければ持続的な森林管理につながらない(井上2004,p139)」といえるのだろうか。伝統的な社会においては(意識的・無意識的のどちらであれ)自然資源が持続可能な形で利用されてきた例が多々あるわけだが、なぜ、そのような伝統的なあり方に期待するのではなく「協治」という新しい概念をわざわざ構築していかなければならなかったのだろうか。その原因の1つとしてグローバリゼーションの進行が考えられる。井上は、「『森は地域住民だけのものである』という考えは、グローバル化および森林利用の多様化が進んだ現在では 、偏狭な地元主義と見なされやすい(井上2004,p139,強調は引用者による)」と述べているが、グローバリゼーションが進行し人間活動が他国との関係性を無視できなくなった現在、森林は地域住民にとっての生活・生計獲得の場としてだけでなく、国にとっての外貨獲得源(木材生産etc.)、都市住民・外国人にとっての安らぎの場(レクリエーション、ツーリズムetc.)のように、そこで生活を営まない人間によっても何らかの価値付けをなされるようになった。そして、そのような価値付けの多様化の結果、森林に対して異なる観点から異なる価値を見出す各主体の間では激しい対立が生じるようになった(政府の「保護主義」vs地元の「利用」etc.)。そのような情況に照らして考えるならば、森林管理を地元住民の福祉・利益だけを考えて行なっていくことは、もはや適切なことではないと考えられるようになったといえる。だからこそ「開かれた地元主義」がここでは要請されているのではないだろうか。

第1章における、森林が「誰のモノでもなかった開放資源(オープン・アクセス資源)」から「地球共用資源(グローバル・コモンズ=人類みんなの資源)」へ変化しているという記述(p46)は、まさにこの変化について述べているわけだが、そこでは森林をグローバル・コモンズとして捉えようとしているのは地域外の人間である。そこでの「よそ者」(※注1)による地域の森林への新たな意味付けは時として地域住民の生活を脅かすこともあるわけだが(国立公園が地域住民の利用を禁止する例は途上国において多く見られる)、「よそ者」の主張が地元の意見を押し潰すまでに力を持つことが可能なのは、インターネットなどを通じて世界的なネットワークが形成されており(=グローバリゼーション)同様の意見を持つ人間同士での連帯が容易になったということがある。そして、単純な人数比では、そのような「よそ者」の集まりの方が地元の人間よりも往々にして数が多いゆえに、意見として勝利を収めることになりがちである(また、最近の流れでいえば地球的・公共的価値というものが強く意識されるようになったことも背景にあると思われる。世界遺産指定地やホットスポットなどは特にそうではないのだろうか)。このような流れに対する反発として、例えば生活環境主義(※注2)などの考えが起きてきたわけだが、そこにおいては、地元の意見・主張もまた地球的なネットワークの中で補強される必要が出てきていると考えられ、結局、「よそ者」の意見に対抗するには地域住民も「よそ者」の支持を集める必要が出てきたと考えられる(ある意味では、この流れも地域主義というものを地球的・公共的レベルで是認しようというものである)。しかし、「生活」との関係を取ってみても、地域住民と「よそ者」では、森林の変化から被る影響力は全く違い、それを同列に扱うことには大きな問題があると思われる。だからこそ、井上は、今後の「持続的な森林管理」を「地域住民を中心とする 森林の『協治』(強調は引用者)」に求めることで、地域住民を「よそ者」よりも優先しているのではないだろうか。ただし、ここにおいて井上は、「協治」とは「地域住民が中心になりつつも、外部の人々と議論して合意を得たうえで協働(コラボレーション)(※注3)して森を利用し管理する」ということで、意見対立が起きた際でも、単純に二者択一のような「勝ち負け」的な決着をつける以上に、両者の意見を十分に聴き、ポジティブな意味で両者が納得できるような解決策を考えていこうという姿勢を取っており、これこそがまさに「止揚(アウフヘーベン=高次元の統一による矛盾の解決)(p150)」の意味知るところであろう。「止揚」が玉虫色の妥協としての決着とは全く異なることは意識に留めておく必要があるだろう。

また、「開かれた地元主義」という考えは、「集団として閉じる傾向」を持つ地域社会の特質と矛盾するものである。そこでの矛盾の克服には「よそ者」の関与が重要となってくる。ここにおける「よそ者」の働きとは、地域住民の生活や地域固有の文化といったローカルな事象をよりグローバルで普遍的な価値観へとつなぐことで、地域における住民のあり方をより高い価値を持つものとして評価しようということである。環境をめぐる運動では、理念のレベルにおいては普遍的・抽象的な原則や規範というものが不可欠であるが、そのような運動において問題とされている、その環境の下で実際に暮らしている人々もいるわけであり、普遍的・抽象的な議論を原則として一方的に押しつけるのではなく、地域の実際の生活における細かいリアリティー・アクチュアリティーを理解して、それを普遍的な言説が抱える価値体系の中で改めて捉えなおす過程が必要である。「よそ者」に求められる働きとは、まさにこの点であり、彼らは地域(性)というものに縛られないがゆえに普遍的な視点から問題を捉えることが可能な立場にある。だからこそ、「よそ者」を通じて、グローバルなコンテクストの中で自然資源管理を有効に機能させるためにどうすればいいのかを考えていくことが必要となってくるのである。「開かれた地元主義」において、地域住民に求められるのは、単純な主体性の放棄ではなく、自覚的に「よそ者」の良い点を吸収していこうという意識的・積極的姿勢なのである。

※ (注1)鬼頭は「よそ者」には次の4つの概念が包含されているとする。すなわち、@当該地域やその地域から地理的に離れた所に暮らしている人、A外から当該地域に移住してきて、その地域の文化や生活をよく理解していない人、B当該地域やその地域の文化にかかわると自認する人たちによって「よそ者」のスティグマを与えられうるし、また実際に与えられている人、C利害や理念の点において、当該地域の地域性を超え、普遍性を自認している人、の4つである(鬼頭1998)。ここでは特に@、Aの観点から「よそ者」と区分されうる人を意識して記述している。

※ (注2)生活環境主義とは「『当該社会に居住する人びとの生活の立場』に立つことを決め、居住者の「生活」に問題解決の強調点を据え」る考えであり、鳥越皓之などによって提唱された。そこでは、「生存(survival)」でなく「生活(life)」の問題が議論の対象とされる点に特徴がある(鳥越1997)。

※ (注3)井上は「パートナーシップ」と「コラボレーション」とを区別して使っている。「パートナーシップ」に「持続的、一体的な協力関係」という含意があるのに対し、「コラボレーション」は「複数の主体が対等な資格で、具体的な課題達成のために行なう非制度的で限定的な協力関係ないし共同作業」を意味する(井上、宮内2001,p229)。

A 「かかわり主義」

井上は「かかわり主義」を「よそ者がある地域の森林の『協治』にかかわることに正統性を持たせるための原則」として構想しているが、「よそ者」がある地域における問題にかかわる根拠としての正統性のあり方には実用的正統性、道徳的正統性に2つがあるとしている(井上2004,p141-142)。そして、「かかわり主義」に基づいて具体的にどのように、「よそ者」に正統性が付与されるかという点については、井上は、道徳的正統性といった場合の「道徳性」とは地元の人々によって付与されるものとなっている。「(外部のよそ者は)自分の価値観を押しつけるのではなく、地元の人々を尊重する 。その限りで、よそ者によるかかわりが正統性をもつことを多くの人が認めるのである(井上2004,p143,括弧内、強調は引用者による)」と書かれており、道徳的正統性をめぐっては対象となっている地域の住民がイニシアティブ握っていることが示されている。近年、森林などの自然資源の管理をめぐっては、「参加型」管理の重要性が叫ばれるようになった。しかし、「参加」の中身をめぐっては、必ずしもその意味するところは明確になっておらず、ただアリバイ的に「参加」の名を冠している場合も見受けられる。このような議論の中で井上は、PRA(Participatory Rural Appraisal、参加型農村調査)における重要な点として、ここにおける研究者の基本的な役割は「ファシリテーター」であり、自らが欲する成果を獲得することを第一に目的とするのでなく、あくまで地域住民が主体的に行動していけるように「側方支援」することが最重要な任であるとしている。「よそ者」がかかわる際にも、これと同様の姿勢が求められるというのが井上の考えである。

また一方で、井上は「かかわり主義」の原則を、地域と外部/外国/国際社会の間の関係性を規定するものとしてだけでなく、地域住民の内部での正統性付与に際しても参照されるべき考えであるとする。井上は「森にまったく興味を持たない人」と「地道に森に通っている人」という対比を持ち出し、同じ「地域住民」であっても対照となる自然資源への日常的なかかわりかたの「濃淡」から、個人に与えられる正統性の強みは異なってくるべきだとする。先の例であれば、後者は前者に比べて、森林利用・管理をめぐる意思決定の中で自らの正統性の優越を主張することができることになる。ただし、この例は極端なものであり、「かかわりの濃淡」の差が極めて明瞭な場合である。「濃淡」の指標付けの具体的な方法は、個々の現場の実情に即して考えていかなければならないものだが、地域内の「濃淡」差はどのように捉えていくべきなのだろうか。最も単純な指標としては、収穫を獲得する(森林であれば木材伐採や燃料用の柴刈りなど)以外での、管理の側面での行動時間の長さや仕事量(収入に直接はつながらない下刈りを行った時間・面積)などが考えられてもよいのではないのだろうか。基本的には、自然資源の将来的な「持続可能性」への貢献度で考えていくことが大切になっていくと思われる。ただし、そういった場合も、人間が行なう計算・予測の限界性を十分認識し、順応的に管理を計画していくことが必要だろう。また、J. ウェストビーが「貧者の外套」と呼んだように、入会地などのような共有地は元来、社会的弱者の生活を助けるという側面が強く、「かかわり主義」により正統性の重みを考えていく際に、その地域の共同体が持つ歴史的・社会的・文化的側面の現代的な意義・有効性を慎重に考慮することを忘れてはいけないだろう。

なお、「協治」に際しての、地元の人とそうでない人との間の「かかわりの深さ」の差異を考えていく場合には、鬼頭が提示する「社会的リンク論」における二種類のかかわり方(=「リンク」)が重要な示唆を与えてくれると思われる(鬼頭1996)。鬼頭は、人間と自然との関係性は「経済的・社会的リンク」と「文化的・宗教的リンク」という二つの局面に分けられるとする。そして、その両者が不可分に結びついた状況(「かかわりの全体性」=「生身の関係」)を回復する、もしくは維持していくことこそが自然資源を守っていく際の基本的な方向性だとしている(※注1)。「社会的リンク論」の観点に立てば、森林を木材生産の場としてのみ見ることは「経済的・社会的リンク」にのみ拠って立つ主張であり、また、野生動物保護のために森林開発に反対する(都市)市民運動は森林の経済的な側面を無視する、「文化的・宗教的リンク」からのみの考えとなる。このような二本のリンクの片一方のみをつなごうとするやり方は、地元の生活者が歴史的に保ってきた「かかわりの全体性」と比べあまりに一面的な自然理解から成り立っており、結局は地域の生活を破壊することに繋がりかねない恐れが高い(※注2)。「よそ者」は“部外者”である以上、地域住民が長い時間をかけて自然との間で構築してきた「かかわりの全体性」を理解することは容易にはできない。だからこそ、「かかわり主義」を実行していく際も、「よそ者」が地元を「尊重する」ことが必要となってくるのである。ただし、地域固有の「かかわりの全体性」が過去もしくは現在において見られたとしても、それを唯一の解法として固執することは危険である。鬼頭は「社会的リンク論」を敷衍するなかで生活環境主義にも言及しているが、生活環境主義の問題点の一つとして、それがあまりにも現在の・現場の生活状況に拘るあまり、静態論に落ち着いてしまう危険性を指摘している(鬼頭1996)。鬼頭は「社会的リンク論」において伝統的な生活・資源管理方法を固持することには拘らず、地域住民の自然とのかかわり方に見られる持続性を模範としつつも、それを現代的な社会制度・技術に照らして現代的な形で再構築していくことが必要であると説明している。社会科学における方法としては「説明」、「了解」、「批判」の三要素のバランスが重要とされるが(山脇1999)、地域住民の「説明」能力の構築、その地域性を価値あるものとして「了解」する「よそ者」の態度、そのうえでの当事者間での遠慮のない「批判」の応酬が「協治」の素地として必要となってくるだろう。

なお、「かかわり主義」における地元の尊重という態度は、「開かれた地元主義」と相互補完的なものと考えるべきである。井上は「開かれた地元主義」が「協治」の「産みの親」であり、「かかわり主義」は「協治」の「育ての親」だと説明している。「協治」がきちんと‘成長’していくためには、まず、「産みの親」たる「開かれた地元主義」が存在しなくてはならない。しかし、その後の段階として、「産みの親」から「育ての親」に‘子育て’の仕事が移るのかというとそういうわけでもないだろう。つまり、「協治」を発展させていく(=‘育てる’)ためには「かかわり主義」の構築が必要となってくるのだが、そこにおいては「開かれた地元主義」が維持されていくことが前提となっているのである。なぜなら、地元が「開かれ」なければ、どんなに「よそ者」が地元に「尊重」の念をもっていようと「協治」にかかわっていくことはできなくなるからである。だからこそ、井上は「産みの親である『開かれた地元主義』と育ての親である『かかわり主義』の共振こそが、(中略)地域自立と環境保全を両立させ、同時に国境を越える人と人との信頼関係を構築するための鍵になる(強調は引用者による)」と述べているのである。現実問題としても、問題が解決されず長期化・拡大をしたならば、そこにおいては新しいアクターが「かかわり」を求めて入ってくる可能性もあるわけで、「開かれた地元主義」とは一時的・刹那的でいい事象ではないのである。

※ (注1)「社会的リンク論」において「かかわりの全体性」とは「人間が、社会的・経済的リンクと文化的・宗教的リンクのネットワークの中で、総体としての自然とかかわりつつ、その両者が不可分な人間―自然系の中で、生業を営み、生活を行なっている一種の理念型の状態」の呼び名であり、「生身の自然との関係のあり方」として定義されるものである。このような「かかわりの全体性」が崩れていく(=リンクが切れていく)過程こそが環境問題だと鬼頭は表現している(鬼頭1996,p126)。

※ (注2)もちろん、地域住民の生活の仕方が常に自然保護的であったとは限らないし、例えば、森林を切り開いて作った棚田が本当に「自然」なのかというような問題もある。人間の本性が自然保護的なのか自然破壊的なのかについては、明確な答えは出せないが、やはり、長い歴史を自然資源の傍で培ってきた人間は基本的に自然保護的といえるのではないのだろうか。井上は、東南アジアの焼畑耕作について、破壊的な「非伝統的焼畑耕作」を行っているのは焼畑耕作の歴史を持たない都市・スラムから森林へ流入してきた人々であり、歴史的に焼畑耕作をしてきた民族の「伝統的焼畑耕作」は基本的に持続的だとしている(ただし、人口増加・土地不足から持続性の低下した「準伝統的焼畑耕作」に変質しているが)。伝統的な生活方法が持続的であるかどうかを巡っては、井上による「持続的利用の三類型(井上、宮内2001,p15−17)」などの考えを参照のこと。

B 「協治」と「インター・リージョナリズム(※注1)」

井上は「協治」という行為を「『インターリージョナリズム』という仏像に魂を入れる作業(p144)」と説明する。そこにおいては、グローバルなレベルでの公共善はリージョナルなレベルでの公共善の確保と、その「重層的な積み上げ」によって達成されるとする考えがあるわけだが、この「インター・リージョナリズム」という考えは、もともと寺西俊一によって構想されたものである。寺西は「インター・リージョナリズム」を「グローバリズム」の先の段階の思想的方向性として構想しているが(寺西1992)、それはつまり、例え「国民国家(ナショナリティ)」が「地球国家/地球政府」などの地球全体を統治の対象とするような、より高次・広範囲の政治機構の成立により存在意義が失われたとしても、「地域性(リージョナリティ)」というものは必ず残ると考えるからである。ソビエト連邦の消滅に伴い、それまで隠されてきた民族弾圧が明らかにされたように、ある一つの価値規範で地球全体が律せられると考えるのは、9.11以降の現在国際世界を省みるにあまりにナイーブな考えといえるだろう。むしろ、進むべき道は地球規模での単一化ではなく、地球規模での価値観の多様化なのではないだろうか。寺西自身は、特に環境破壊への規制に関する文脈において、規制における「地域性」の反映の必要性を主張し、単一のグローバルスタンダードの押し付けに反対するが、そこでいう「地域」とは国民国家の枠組を超えつつも、一定の「同質性」としての「地域性」を持つがゆえに地球上の他の「地域」から区別されるようなまとまりを指すものと考えられる(※注2)。

このような、「インター・リージョナリズム」は従来の地球環境問題をめぐる政治が「“国家間利害”の調整原理」を克服できなかったという反省に基づいて構想されているわけだが、その細かい内容については寺西(1992)では必ずしも十分に説明されているわけではないが、「協治」との関係から考察しておかなければならないと思われる点がいくつかある。まず、第一には、複数存在するであろう「リージョナルの原理」の間での合意形成の問題である。地球環境問題をめぐる「ジレンマ」として寺西は「“南北間”“各国間”という二つの次元での深刻な利害対立の壁」を挙げているのだが、この二つの次元の間として「地域」間での利害対立というものが考えられるのではないのだろうか、起きたとしたらどのように克服するのかについては特に記述はない。「インター・リージョナリズム」には「リージョナルとリージョナルとの間における開かれた共生的諸関係」が含まれるとされているが、“南北間”の対立とは経済的な「地域性=リージョナル」が異なる(=経済発展の度合いに差がある)国々の間の対立であり、そのような「リージョン」間の緊張関係をいかにして「共生的諸関係」に持っていくかを考察する必要があるだろう。このような緊張関係をほぐす方法の一つに先にあげた「かかわり主義」が使えるのではないかと思えるが、この意味で「協治」は「インターリージョナル」をより現実化したものであるといえる。また、「インター・リージョナリズム」をめぐる第二の疑問点としては、そのようにして相互に共生関係を作っていく「リージョン」の内部における一貫性とはどのようにして構築・維持していくべきかという問題がある。たとえば、G・ポーター、J・W・ブラウンは地球環境問題におけるレジーム分析(※注3)を通じて一元的アクター・モデル(「国家アクターは、あたかも内部的に一貫した価値と態度の1つの集合をもった単一の実体として扱うことができるとするモデル」ポーター、ブラウン1998,p26)は地球環境問題を分析していくには有効ではないとしている。「インター・リージョナリズム」が国家に対して一元的アクター・モデルを想定しているのかどうかは明確にはされていないが、「リージョン」の内部において意見対立が起こる可能性というものはあまり考量されていないようである。これは「地域性」というものをどう定義・判断するのかが困難なことと関係があるわけだが、寺西の論説からすると「リージョン」とは前提として「同質性」としての「地域性」を構成要素の全てが共通に保持しているがゆえに内部衝突が起きないと考えているとも読めるが確かではない。ただし、「リージョン」が以上のような意味で内的一貫性を持つものだとしても、「地域性」が変質する可能性も考えられるであろう。現在、日本もそうだが「単一民族国家」と呼べるような国家は地球上珍しい例だと思われるが、少数民族の拡大や移民を通じた多民族化の進行といった問題はEUを見れば分るように現実に起きている問題である。このような中で、一度形成された「地域性」というものが内部で変質し、その一貫性が保てなくなる可能性もある。このような考えからすると、「地域」の「同質性」をどのように保っていくのか、それはどのようにすれば平和な形で変化(分裂・合併?)することができるのかもこれからの重要な考察点であろう。また、「リージョン」というものを分析するには多国籍企業と呼ばれるような地球規模で経済活動を行なう経済主体や国際NPOといわれる組織などの活動の意味を再検討する必要があるだろう。そのような国際アクターが国内・リージョン内のアクターとどのように結びついているのか、影響を与えているのかの問題を考慮することも必要だと思われる。

寺西による「インター・リージョナリズム」においては、「リージョン」は主に一定の空間的広がりを指していると思われるが、これに対して、「協治」においても、「地域ごとに、自然環境と社会環境のあり方を前提として、試行錯誤しながらよりよい仕組みを設計し、合意を得るしかあるまい」と述べられており、「地域」というものの重要性を反映することが必要とされている。「協治」においては「地域」の個別性を意識しながらも、「開かれた地元主義」という前提を置くことで、安直な「閉鎖的」ローカリズムに陥ることが防がれている。そのことによって、最終的には地域の論理と公共の論理(=「普遍性」)との「止揚」が目指されることになる。これに関しては、前半部分は、「リージョナルの原理」というものを「閉鎖的なローカルの原理」と峻別して考えるという点で寺西の「インター・リージョナリズム」と同じ認識だといえる。しかし、後半部は「協治」の独創的な点であり、「育ての親」としての「かかわり主義」を採用することにより「協治」においては「よそ者」の積極な参入が起き、その「よそ者」が「普遍的な価値観」を「地域」に導入することで、「インター・リージョナリズム」が前提とする「地域性」をも越えるより広い関係性が構築される可能性が多分に存在することになる。つまりは、寺西の説明では「地域性」の中には「先進国/途上国」「北/南」という差異が特に大きなものとして取りあげられているが、ここにおける区別は、基本的には‘国’という地理上の線引きを基にしてできたものである。しかし、「かかわり主義」を採用する「協治」においては、「先進国/途上国」というような線引きは意味をなさなくなる。そこにあるのは問題に対して「かかわり」たいとどれだけ強く思っているかの「濃淡」(=「有志」としての気持ちの強さの違い)だけである。「協治」の具体的な議論においては、当然ある具体的な自然資源の管理を行なう“現場”が存在するわけだが、「かかわり主義」を掲げる「有志」のネットワークは国や地域といった垣根を越えて結成される可能性のあるものとなっている。逆にいうと、「インター・リージョナリズム」においては ‘リヴァイアサン’たる国家という束縛からどこまで自由になれるのかという点が最大の問題となってくる可能性が高い。

※ (注1)寺西(1992)では「インター・リージョナリズム」、井上(2004)では「インターリージョナリズム」とあるが、原則として引用・参考もとの文献にもとづいて中点をつけるかつけないかの区別をここでは行なった。

※ (注2)「同質性」としての「地域性」の峻別を実際に行なうには極めて困難が予想されることは明らかだと思われる。この点については、人類学などの研究蓄積を参照しつつ今後考えていきたいが、人類学における発想としては、坂本邦彦は「世界単位(=生態基盤の上にそれに規制された形で生まれた風土が外文明の影響のもとで変容し、同様にして変容した風土がいくつか政治的に結びあわさって出来た文化的、経済的、政治的に意味のある空間)」などの考えを踏まえつつも、「地域」を「生態、生業的に共通の要素もち、地図上にある範囲をもって確定することができる場」というように説明している(坂本2001)。

※ (注3)(国際的)レジームの定義には通常2つあり、1つは「暗黙的なものであろうと明示的なものであろうと、特定の問題領域においてアクターの予想を何らかの形で集約してゆくような規範、規則及び意思決定過程の集合」をレジームとするもので、もう1つは、レジームを「多国間協定によって特定化される規範と規則のシステムのことおであって、それはある特定の問題ないし相互に関連した問題の集合に関する国家の行動を規制するもの」とみるものである。なお、ポーター、ブラウンは後者の定義を用いている(ポーター、ブラウン1998)。

C 「素民」から「有志」へ

これまで述べてきたように、「協治」には「開かれた地元主義」と「かかわり主義」という‘二人の親’が存在する。このうち「開かれた地元主義」というものが、その名の通りに問題となっている地域に住む人々の姿勢を問うものであるのに対して、「かかわり主義」という思考法の対象となっているのはまずは「よそ者」である。前述のように、「かかわり主義」の考え方は「地域住民」の意見の重み付けにも用いることの出来る考えであるが、本文にも述べられている順からも分るように、「かかわり主義」でまず問題となるのは「よそ者」である(井上2004、p142参照)。自然資源管理ということで、通常では、「地域住民」に対置して考えられる「よそ者」であるが、この「よそ者」がある地域の問題に積極的にかかわっていくことで生まれてくるのが「有志」という存在/あり方である。この「有志」という存在の意味を考えるには、まず、なぜ井上が「ふつうの人々」としての「素民」というあり方を問題にしたのかを考えなければならない。井上は、「市民」という言葉が「個として自律し、私利私欲を超えた公共性をもつ行為を実践できる人」と定義されるのに対して、「素民」という言葉の意味を「いつも矛盾を抱え、時には私利私欲に走ってしまう」ような「ふつうの人々」を指すものと説明しており、ここにおいては、「市民」と「素民」とは極めて対照的な存在となっている。その一方で、「有志」という言葉を始めてこのような意味で使用し始めた宮内泰介は、「有志」という言葉の意味は「志ある人びと(宮内2001)」であり、自然資源管理などの問題においては、「それを実際に担ってきた/担う意思のある(同上)」人のことであるとしている。井上は、「市民」を前提とした従来の公共性・公共哲学の議論の意義を認めつつも、「市民」でなく「素民」を出発点とする議論の必要性を主張する(※注1)わけだが、ここで何よりも重要なのは、「市民」とは「素民」というあり方の一部であるということである。これについては、井上は「結局、『市民』という概念は、『素民』のもつ一側面として生成された『有志』としての資質を抽象化した概念(p148、強調は引用者による)」と説明する。つまり、「市民」と「有志」とは公共性の構築・復興という「私利私欲を超えた」行為の実践を目指すという点では同様の志向性を持つ存在であるが、「有志」が「市民」と異なるのは、「有志」はある人間の‘常なる姿’なのではなく、「素民」(=「ふつうの人々」)がある特定の問題に限って見せる“一時のかりそめの姿”だということである。したがって、「有志」は自分の関心のある問題から離れた時点・場所ではもはや「有志」ではなく、自らの私利私欲に走ってしまうような「素民」に‘戻る’のである。

このように考えることで公共性・公共善といった概念も従来の議論とは異なった観点から分析することが可能となってくる。今までの公共性・公共善の議論(=公共哲学)においては、ハーバーマスやアーレントに見られるように公共性を一つの空間とする見方が強かったように思う。例えば、斎藤は「公共性は誰もがアクセスしうる空間(斎藤2000、p5)」であるとし、「公共性は真理ではなく意見の空間なのである(同上、p49)とも述べている。また、ハーバーマスやアーレントの公共性論を展開する中では、「空間」という言葉が繰り返し用いられている(斎藤2000)。このような議論においては、公共性(公共空間)の「範囲」や、その内部で行なわれるべき「コミュニケーション/討議」のあり方が議論の対象となっているのに対して、そこに参入していく「市民」の形成については必ずしも十分な注目が払われているとは思えない。ハーバーマスにおいては、公共性のモデルとして18世紀の市民社会が考えられていたことは有名であるが、そこにおいては「市民」は市民社会の中であればどこにでもいるような存在として想定されている。市民社会を前提とする議論においては、「市民」の誕生は議論以前のするまでもない‘事実’のように扱われている感が強く、「ふつうの人々」も教育や社会活動などを通じて全員が最終的には「市民」と呼べるような人格へと成長するという考えが根底にあると思われる。したがって、公共性をどのようにして「生成」するかという点と同様に、公共性をどのようにして「成長/発達」させていくかが考察の対象となっている。それに対し、「素民」⇒「有志」という論理展開を行なう「協治」論においては、どのような事情・条件のもとでなら「素民」が「有志」へと変貌するのかということが重要な点となっている。公共性を「対等な理性的市民が何らかの要求を掲げて討議しあい、その結果、合意に達するような『コミュニケーション的行為』(山脇2004、p134)」の産物と考えるハーバーマスの議論に登場してくる「(理性的)市民」とは、自分と対象たる問題との間にほとんど「かかわり」がないような場合においても、自分以外の人々にとっての公共善のために、「理性」に基づき「私利私欲を超えた」行動を起こせるような存在のことである。しかし、井上はこのような人間像が現実には不可能では無いかと考える。そうではなく、自らに特に関係が深い問題においては積極的に参加し、自分とは縁が少ないと思われる問題に対してはあえて口出しをしないというのが「ふつうの人々」の姿ではないのかと考えるのである。「公共性」というもの創設をしていくためには「私利私欲を越えた」公共的人間が必要となってくるが、井上が問題としているのは、全ての公共的問題にかかわることが(正統性として)認められるような存在が現実にあり得るのかということではないだろうか。特に、森林管理などにおいては、その現場が持つ固有の「地域性」が存在し、その前では、形而上学的な抽象論・是非論は有効とはいえない。問題を解決していくために必要なのは、地域における複雑な現実を理解しようと努め、そこから何か解決策を提示することにチャレンジし続けることのできる人間である。そのような姿勢を維持していくことは、抽象論としての公共性を考えていくことと同様、もしくはそれ以上に困難を伴うというのが、フィールド研究家としての井上の認識としてはあるのではないだろうか。したがって、これから必要となってくるのは、「開かれた地元主義」を地域に根付かせることで「有志」として自然資源管理に関心のある人々を積極的に取り込むとともに、「素民」の中からにいかにして「有志」を抽出して「協治」のネットワークの中に組み込んでいくかという問題であろう(※注2)。

 また、「協治」における「素民」/「有志」論では、「素民」中から発現されて出てくる「有志」の役割も重要だが、同時に、「素民」が「素民」として持つ役割にも注目しなければならない。先に述べたように「有志」は「素民」の中から“選り分け”られてくるものであり、したがって、ある問題に際して「素民」のままである(=「有志」にならない)という選択肢も存在する。これには、時間的・空間的制約などから問題に関与していくことに否定的であったり、問題に対する話を聞く以上の強い関心を持たない人がとる行動であるが、それにもかかわらず井上は、「この思想(=「協治」の思想)の担い手は、「素民」と「有志」 を含むさまざまな利害関係者(ステークホルダー)である(井上2004,p150,最初の括弧、強調は引用者による)」としており、「協治」の実践においては「素民」の関与・存在が重要な一要素であることを示している。そのような「素民」の役割について井上自身は必ずしも十分な理論展開を行なってはいないが、宮内の議論を参考にするならば、「素民」の機能としては「有志」への「動的な正統性のしくみ(宮内2001、p65)」がある。つまり、自然資源管理の問題などにおいて、それを「担う意思のある『有志』」に対して、「この人たちなら任せてよいだろう」「この人たちの主張に道理がある」という形で正統性を付与するということである(宮内2001)。宮内論文では、「有志」論を用いた考察の対象として日本国内の問題が取りあげられているため、そこでのアクターは主として日本の地方政府と地域における「有志」集団、およびその地域に住む「人びと」(=井上のいう「素民」)であり、国際的なグローバル・コモンズとしての森林管理を念頭に置いて構想された「協治」とにおいては若干の修正が必要となってくると思われる。「かかわり主義」をとる「協治」においては、問題となっている森林などの自然資源がある現場に生活している「素民」と、「よそ者」としての「素民」の2つの「素民」が存在することになる。どちらの「素民」も、現場で問題に対処していこうとする「有志」(地元、「よそ者」によらず)に正統性を与えるという点では同じだが、「かかわりの濃淡」ということであれば「よそ者」としての「素民」もつ影響力は必然的に地元の「素民」よりも小さくなると考えられる。しかし、「よそ者」としての「素民」の働きとしてはグローバルな言説への影響が考えられる。「開かれた地元主義」に関連して、森林がローカル・コモンズからグローバル・コモンズへと変遷してきたが、これに伴い地域での資源管理にインターナショナルなレベルから介入が行なわれるようになってきた。‘生物多様性保全’や‘地球共有財産としての森林’といった言説が結果として「地域」の意向を無視した政策につながってしまうという点については既述であるが、そのような流れに対抗するものとしての「協治」という枠組み自体に正統性を与えることが「よそ者」としての「素民」の一つの役割ではないだろうか。地理的・時間的に離れた空間での問題に対して積極的にかかわろうとは思わないが、そこへ向かう「有志」たちの生き様を支持・支援することを通じて、国際企業や組織、外国国家などが私的利益や一国的国益を追求していくのを批判・阻止する役割を数としては「有志」を上回るであろう‘よそ者素民’が担うのである。

※ (注1)「素民」とは「住民・人民・常民・庶民・地の民など」と基本的な性格に関しては(「ふつうの人々」を意味するという点で)大きな差があるわけではなく、井上自身が本文中で述べているように、それらの言葉が特定の学問ディシプリンごとで微妙に違う意味で使われてきたという経緯から、意味の混同・混乱を避けただけであり、「素民」という呼称自体を議論の対象とすることには特に意味がないと思われる。

※ (注2)この点に関して宮内は、「『有志』は環境とのかかわりや運動のプロセスの中で生成されるもの」であり、「最初から自立」している「市民」とは異なると述べている(宮内2001)。やはり、ここで問題となっているのは「有志」が生成されるプロセスなのである。

【参考文献】

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